(1)仕事への考え方を変えた連鎖倒産

それは確か1973年、小学校4年生の夏のことでした。
朝から私は布団の中で寝込んでいました。
子供のころから喉の炎症を起こしやすかった私は、その日も熱が出た為、休校していたのです。

不審な来客の訪問

午前11時ころだったかと思います。
家に見知らぬ年配の男性二人の来客がありました。
父親は仕事の為不在でしたが、その人たちを母親が丁寧に家の中に案内します。

彼らは一部屋ずつ中を見回り、最後は私が寝ている奥の寝室までやってきます。
身なりはきっちりとしていましたが、それに不釣り合いな鋭い眼光が印象的な二人でした。

彼らは布団で寝ている私に一瞥することもなく、天井から壁を見ながら「ここはいい部屋ですね。」とか何とか話しています。
しばらくしてその人たちは帰っていきました。

いったい彼らはどういう人たちだったのか、母親に聞いても答えてはくれませんでした。

突然やってきた、「銀行取引停止」

やがて彼らが何故やってきたのかがわかる事態に数年後に直面することになります。

ある日突然、祖父の会社が発行していた約束手形が2回目の不渡りになり銀行取引停止となったことを両親から聞かされます。
三重県の志摩半島(日本でも有数の養殖真珠の生産地)出身の祖父は、戦中から神戸市に進出し、実家で養殖していた真珠の卸売業を営み、時にはアクセサリーのデザインも手掛けるなど、戦後一代で資産を築き上げた成功した商売人というのが私の印象でした。

ちなみに私の名前「真英」は祖父が付けたのですが「真珠の英虞湾」の略であったことを最近になって知ります。

倒産の原因ですが、同業の事業者を支援する為に、いわゆる融通手形の発行を祖父が繰り返していたようで、その支援先の破綻に伴っての連鎖倒産であったように思われます。

一夜にして、一族全員の財産を失う羽目に

当時、中学3年生だった私は、会社の経営とはどういうものかはまだ知る由もなく、「不渡り」という言葉もその時に初めて知りました。

後継者として長男であった私の父も祖父と共に経営に携わっており、会社の事務所も兼ねていた祖父の家は当然の事、三重県の養殖場や、そこを任されていた父の弟の家、当時両親と住んでいた私の自宅など全てに債権者の担保が設定されていた為、一族全員が一夜にしてすべての財産を失う事態となりました。

冒頭の、子供の時に家の中をくまなく調べにやってきた見知らぬ二人の男性は、恐らく民間の金融事業者が担保を調査に来たのであろうということが、今になって理解できます。

皮肉にも後に銀行に就職して融資の仕事に携わることになる私ですが、お客様の不動産の担保調査をする際にも、部屋に上がり込んで天井や壁などを見回るようなことはしませんので、その時の二人の男性は銀行員ではなかったのは明らかです。

今思い返してみると、他にも小学生のころに不可解な出来事がありました。
両親とともにお盆に三重県で祖父らと実家で1週間ほど過ごし、夜遅くに神戸に帰ってきたときのことです。
暗がりではっきりと見えませんでしたが、庭に見知らぬ麻袋が放置されていました。

一緒に帰ってきた叔父が何だろうと麻袋を開けると、中には蛇の死体が数匹詰め込まれていたのです。
叔父は面白がって捨てに行ってくれましたが、今思えば例の二人組が家を見に来た時期に重なり、思い出すたびに背筋がぞっとします。

商売の現実を突きつけられた学生時代

一般的には中学生から高校生にかけて親への「反抗期」というものがありますが、当時の私はこのように苦境に立たされている両親や親戚たちの姿を目の当たりにしていたため、反抗する機会など全くないまま思春期を終えました。

中学生だった私の出来ること言えば、祖父の家や自宅を引き払う際の引っ越しの手伝いくらいでしたが、そうやって子供の時に過ごした部屋や窓から見える風景が次々と失われてしまうことは、心の中に商売の厳しさを植え付けられる貴重な体験でした。

このことはその後、社会人になってからの私の仕事への考え方にプラスになったのは間違いありません。